「幼なじみ」の日記まとめ
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マメママです。

あいつ、まじでふざけてる。ふざけ倒してる。
なにあれ。俺の気持ちわかってて何してくれてんの?
そりゃあ言ったよ?その気になったらいつでもいいよなんて、確かに言ったわ。
言ったけどさ。あんなの半分冗談じゃん。
おまえがやるわけないってわかってての冗談じゃん。
残りの半分は、そりゃ、まあ、俺はそういう気持ちだって。
そういう意味でおまえのことが好きなんだって意味を込めたけど。
だって意識してほしいじゃん。じゃないと俺なんのためにこんな。
1ヶ月だけでいいからとか、振られるのわかっててこんな縋るような真似してると思ってんだよ。
なのにやっぱりおまえは全然そんな素振りなくて。
ただ昔思い出して、俺といるの楽しいって笑ってる。
嬉しいよ。それだって俺が望んでたことだよ。
だけどそれだけじゃないじゃん。
いつまで経っても俺は友達で幼なじみで、おまえの特別になんかなれない。
やっぱりもう無理なんだって、このままあっという間に1ヶ月なんて過ぎてまた元の俺らに戻るんだって。
そうやって毎日毎日言い聞かせてるのに、おまえがあんなことするから。
簡単な気持ちで好きとか言ってんじゃねえよ。
可愛いなんて、おまえの可愛いはそこら辺の犬や猫に言ってんのと同じなんだよ。
そんなノリでキスとかしてんじゃねえよ。
ケラケラケラケラ笑って、俺が慌ててるの見て楽しんで。
おまえはいつもそうだよ。
俺が動揺したり、赤くなって言葉に詰まったりするのをいっつもいっつも楽しそうに見てる。
ほんと悪趣味。ほんとずるい。
俺がおまえに弱いのを知ってていつもこうやって。
そのたび俺は振りまわされて。
ああ、そうだよ。
まんまと振り回されてるよ。
あんなふざけたようなキスに心臓バクバクいってるよ。
くふくふ笑いながら近づいてくるおまえの吐息が顔にかかるだけで、全身熱くなるんだよ。
おまえ、そんなのわかんねえだろ。
ふざけんなって思うのに。やめろバカって思うのに。
こんなことですら嬉しいと思う俺はもうどうしようもない。
最後まで笑いが止まらない相葉さんをおいてさっさと帰ってきた俺は、なんだかどっと疲れてどさりとベッドに身体を投げ出した。
思い出すだけで熱くなる頬にシーツの冷たさが心地よい。
しばらくそこに顔を埋めていると、尻ポケットでスマホが震えた。
顔を突っ伏したまま手探りでそれを取り出し見てみると、相葉さんからのおやすみメール。
そのたった四文字の言葉にまた、あいつのにやついた顔が浮かんでくるから腹が立つ。
「ばーか…」
ぽすんと枕元にそれを投げ出し、見ないようにしたけれど、すぐにそれを手繰り寄せ、同じ四文字の言葉を送り返した自分にも腹が立つ。
こんなの完全に惚れた方が負けじゃん。
負け負け。俺の負け。どうせ俺はあいつには敵わない。
だけどさ。
あいつは本当に俺の好きの意味をわかってるんだろうか。第1話 2017.8.6
黒川翔太君
ずっと、福井県の公立学校で教師稼業をしてきました。
京都の大学を卒業し、民間企業に就職して大阪と水戸で勤務した後、郷里の福井県に帰り国語の教員となりました。
勤務先は、養護学校(現特別支援学校)を振り出しに、商業高校、進学校、中学校、水産高校、工業高校、県教育委員会、教育研究所と、実に多様な職場を経験でき、たくさんの個性豊かな生徒、保護者、そして同僚との素敵な出会いを積み重ね、実に刺激的で幸せな教員生活を送ることができました。
(世間一般では、このような勤務歴を「たらい回し」とも言うようですが……)
そうして、いつの間にか定年退職の年を迎え、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくブログで書き綴ってみようかと、広島の原爆記念日である8月6日に発信を始めることとしました。
亡くなった私の父親は広島で被爆しており、そして一人息子の誕生日もまた8月6日なので、この日には個人的にかなりの思い入れがあります。
拙著『紙風船』について
進学校に勤務し3年生の担任をしていた時、週に1回のペースで「学年便り」を書いていました。そうして、2009年に、その文章を元にして、『紙風船』という本を上梓しました。
本ブログでは、同書の拙文と挿画も記事として掲載していく予定です。
赤い鳥 ー 本ブログのテーマ・ソングです。
拙著『紙風船』から
「前書き」の言葉
この本を手に取っていただき、ありがとうございます。心からお礼申し上げます。
私は福井県の公立高等学校で国語を教えている者です。
以前勤務していたF高校で3年生の担任をしていた折に生徒の皆さんに向けて書き綴ったメッセージを元にして、この本を書きました。
その元となっている学年通信のタイトル『紙風船』は、私が長年にわたって愛誦してきたの詩の題名でもあります。
大学受験期には、ほとんどすべての受験生が壁にぶつかって立ちすくんだり落ち込んだりするものです。そんな時には、ぜひ、この詩の優しくかつ力強い言葉を思い浮かべて、一つ一つ目の前の壁を乗り越えていってほしいという祈りを込めました。
また1973年にこの作品は美しいメロディーがつけられ、「」というフォーク・グループによって歌われました。作曲はその中心メンバー、後藤悦治郎。1970年代のフォーク・ソング(高校生には、もう死語ですか?)を代表する名曲です。同じグループの『翼をください』は、今でもよく歌われていますが、『紙風船』を聴いたり歌ったりすることは絶えて久しくなりました。誠に残念であります。
本書では実際のものからは内容を大幅に書き直しておりますので、あくまでも架空の高校の物語として読んでいただきたいと思います。そのために著者名では実名を避け、「若松若水」というペンネームを用いることにしました。
書中の文章は国公立大学志望者の多い高校の生徒を意識して書いてありますが、中核となる内容は、どこの高等学校にも通じるものだと思っています。
私は教員になってから、他の先生方と比べて多様な学校に勤務して参りました。しかし、人として、先に生まれた者として、生徒に伝えたい事柄は、どこの学校でもほぼ同じものでした。
もしも、大学進学を希望していない高校生の方にも読んでいただければ望外の喜びです。
各章、各月の扉には、国語の教材としてよく取り上げられる優れた詩、短歌、俳句等を、画家・岡崎和代さんの挿画と共に掲載しました。言葉そのものの響きや手触りをじっくりと味わっていただけたらと思います。
同じ作品であっても、教科書や参考書の中で出会うよりも、より深く心に響くことが可能ではないかと考えております。
なお、岡崎さんの他にも、私がこれまで知遇を得てきた佐々木民弥君、米谷清和氏からも既に発表された絵画作品の掲載許可を頂戴しました。どれをとっても、私には過ぎた作品であります。
パソコンに向かってワープロを打っていた自宅の机の上には二人の教育学者の言葉を記した紙があり、それらの言葉を常に肝に銘じて生徒へのメッセージを書いてきました。
日頃の教育活動でどこまで実践できたかと自問すれば、はなはだ心もとない限りですが、志だけは、何とか持続してきたつもりです。
[アメリカの教育学者 の言葉]
凡庸な教師は、ただ話す。
良い教師は、説明する。
優れた教師は、態度で示す。
そして、偉大な教師は心に火をつける。
[イギリスの教育学者 の言葉]
最もよい教師は、子どもと共に笑う。
最もよくない教師は、子どもを笑う。
「後書き」の言葉
最初に口絵と挿画について書きます。
描いてくれたのは岡崎和代さんです。彼女は、クラス数が多くかつ毎年クラス替えを行うF高で3年間担任をした唯一の生徒です。画家を志し東北芸術工科大学芸術学部美術学科に進学し、現在山形市在住。22歳の若さで院展に初入選してから、家事と育児に奮闘しながら、絵も描き続けています。そして、この本のために、おびただしい数のカットを描いてくれました。『紙風船』の刊行が彼女の画家としてのキャリア形成に少しでも資する所あれば幸いです。
そして口絵のモデルの男子生徒は岡崎さんの同級生黒川翔太君。2・3年生の時、担任をしました。見事なくらいの「さわやかな好青年」でした。いくら思い返しても、不機嫌な表情やだらしない態度は浮かんできません。そして聴いていると鳥肌が立つくらいの腕前のドラマーでした。
そんな彼が、あろうことか2006年9月6日、交通事故で急逝してしまったのです。23歳の若さでした。
数百人の若者であふれていたお通夜。父親の喪主挨拶の第一声は、「翔太、よかったな。こんなにたくさん友達が来てくれて……」
その言葉を聞いた瞬間、私は、久方ぶりにはっきりと落涙しました。ちなみに父親は私の幼なじみです。小・中学生の頃には、よく一緒に遊びました。
卒業アルバムの翔太君は、今も優しい笑みをたたえています。
山形に住む岡崎さんから完成した人物画が私の自宅に届いた日曜日。すぐに父親の携帯に電話しました。本の出版の計画を説明し、翔太君の絵が今日着いたと告げました。すぐにでも彼の家に持って行って見てもらいたかったので、彼の都合を訊いてみたら、
「今、家族旅行で県外にいるんだ」
「いいなあ……、で、どこに行ってるの?」
「それが、山形なんだ」
一瞬言葉を失ってしまいました。
そして絵を描いた岡崎さんが山形市在住であることを告げると、今度は向こうが驚愕する番です。
しかも、その山形旅行は翔太君の親しかった友人が山形出身で、彼の没後もずっと連絡を取り続けていて、毎年サクランボを欠かさず送ってくれたりしているので、観光旅行がてら息子の旧友を訪ねていく旅だったのです。
数日後、黒川夫妻が帰福してから、絵のコピーを持って訪ねて行き思い出話をしましたが、
「何かご縁があったんだなー」
と、三人でしみじみとした感慨を共有しました。
ちなみに、岡崎さんの旧姓も「山形」です。
次に、本書を作り上げるに当たってご協力いただいた他の2名の方々に謝辞を述べます。
佐々木民弥君。中学校からの友人です。高校時代、共に剣道部で汗を流しました。47歳にして突然絵に目覚め、公務員として働く傍ら、数多くの公募展で入賞を果たしています。
米谷清和は私の従兄です。年が離れていますが、いろいろな意味で多大な影響を受けてきました。
今日まで私の拙い授業につきあってくれた(ている)生徒諸君。私が最も感謝すべきは間違いなくあなた方です。生徒の言葉にたくさんのことを教えられ、生徒の反応によって自らの考えを見直す日々の中で、私なりに教師として成長できたと思います。ありがとう。これからもよろしくお願いします。
最後になりましたが、F高の卒業生の皆様方、在校生諸君、そしてこれから入学してくる未来のF高生諸君のご多幸を、心からお祈り申し上げます。
2009年12月24日 クリスマス・イブの夜、ロウソクの灯りにて書き記す。
岡崎和代 作
佐々木民弥君の作品
『初陣』
高校1年生・柔道部女子生徒の大会デビュー戦の凛々しい姿を描いています。
「8月6日」という日について
平成25年の秋に父が死去し、翌年、広島県で開催された平和記念式典に、福井県遺族代表として広島市から招待を受け、家族一同で参列しました。当日、毎日新聞の記者さんから取材を受け、翌日の朝刊に下記の記事を掲載していただき、よい記念となりました。
毎日新聞記事 2014年8月7日 掲載
(記事中の人物名は仮名としました。)
運命の日 八月六日
福井県遺族代表として平和記念式典に参加した福井市の高校教員、若松さん(57)は「8月6日」という日付に特別な思いを抱いている。昨年、88歳で死去した父・哲人さんが被爆した日であり、一人息子の太郎さん(21)の誕生日でもあるからだ。若松さんは今年、哲人さんの死をきっかけに初めて記念式典に臨み、「縁(えにし)を感じるこの日に父の『戦争はよくない』という言葉に思いをはせたい」と祈りをささげた。
69年前の8月6日、陸軍兵士だった哲人さんは爆心地の南約3・5キロで被爆した。資材や燃料を埋めて隠す作業をしていたという。「突然、背後から強い光が差したかと思うと爆風で倒された」。哲人さんは生前、こう語っていた。
哲人さんに大きなけがはなく、近くの飛行場で警備の任務についたところに、やけどを負った人々が逃れてきた。「兵隊さん、水をくれ」と懇願されたが、「やけどには水は悪いで我慢せえ」と応じなかった。哲人さんは「水をあげればよかった」と悔やんでいたという。
哲人さんは戦後、古里・福井で鉄工所などで勤め、所帯を持った。哲人さんは「被爆の影響で若死にするかも」と悩み、長男の若松さんも「被爆2世だから白血病になるのでは」と不安にさいなまれた。8月6日はつらい記憶の日だった。
それが変わったのは1993年。太郎さんが予定日から1日遅れの8月6日に産声を上げた。若松さんは哲人さんと喜びながら「運命がこの日にあるんじゃないか」とささやき合った。その年、かねて知人に勧められていた骨髄提供者(ドナー)登録をした。「(原爆症に多い)白血病患者の助けになろうと思った」からだ。
一方、太郎さんは中学1年だった2006年夏、家族旅行先の広島で、哲人さんから初めて詳しい被爆体験を聞いた。「子供を抱いた母親に助けてと言われたが、手を合わせて逃げた」。哲人さんの話に衝撃を受けた太郎さんはその夏、「八月六日」と題した作文を書き、優秀作品に選ばれた。
〈戦争が終わってから61年がたった。祖父は61回の8月6日に何を思ってきたのだろうか? うれしくはないだろう。しかし、1日だけうれしい日があったらしい。平成5年の8月6日、初孫が生まれた日、つまりぼくの誕生日だ〉
米谷清和の高校時代の習作
なお、
本ブログで使用する美術作品のほとんどは、拙著『紙風船』で使用したものです。
制作した 株式会社 様が完全な画像データを保存しており、今般、快く提供していただきました。衷心より感謝申し上げる次第です。